2019年08月15日
「夏と私」 中原中也
「夏と私」 中原中也
真ッ白い嘆(なげ)かいのうちに、
海を見たり。鴎(かもめ)を見たり。
高きより、風のただ中に、
思い出の破片の翻転(ほんてん)するをみたり。
夏としなれば、高山に、
真ッ白い嘆(なげ)きを見たり。
燃ゆる山路(やまじ)を、登りゆきて
頂上の風に吹かれたり。
風に吹かれつ、わが来(こ)し方(かた)に
茫然(ぼうぜん)としぬ、………涙しぬ。
はてしなき、そが心
母にも、……もとより友にも明(あか)さざりき。
しかすがにのぞみのみにて、
拱(こまぬ)きて、そがのぞみに圧倒さるる。
わが身を見たり、夏としなれば、
そのようなわが身を見たり。
中原中也、海を見たりカモメを見たり、真っ白い嘆きの中にいる。かもめのように空から自分を眺めると、これまで自分がやってきたことや、その思い出に溜息をつく。未だ何も出来ていない、悔いの残ることばかり、茫然と涙する。そのことを、母にも言わないし、友人に誰一人言っていない。
とは言うものの(しかすがに)望むだけで、望みに圧倒され、手をこまねいているばかりの自分である。中也はこれまで毎年夏になれば、「夏」題材の詩作をやってきた。昨夏よりこの1年を経て、何も出来なかった自分がいた。
その頃の中也のいう圧倒される望みとは、フランス留学であった。フランスの新学期は9月の始め。今年もフランス行きの準備は何も出来ていない。この時、昭和5年。また留学決行の夏がやってきた。夢のフランス留学、その夢を果たせない我が身を見て嘆く詩人中也である。
翌年、中也は東京外大のフランス語専修科に入学した。授業は夜学で午後5時から2時間。フランス留学のために、外務書記生の試験を受けるべく、夢を一歩前進させたが、専修科を終了しフランス行きの夢は終わってしまった。
しかし、ベルレーヌ、ランボウなどのフランス象徴派詩人の作品を、原書で読むにはフランス語の勉学は大いに役に立った。
シラサギ草
きょうの音楽
モーツアルト ピアノソナタ第10番 ハ長調 K.330
ピアノ ガブリエル・トマセロ
これまで、10番、11番はフランスで作曲されたとされてきたが、近年、ザルツブルクで作曲されたことが明らかになっている。
MOZART K. 330 ピアノソナタ第10番 ハ長調 K.330 - Gabriele Tomasello, piano.


この記事へのコメント

台風が過ぎても暑さは相変わらずですね。(-_-;)
シラサギ草の見事なお写真が涼しそうで、気持ちが良いです!
「フランスに行きたしとおもえども」の時代、すでにフランスという国の面白さは驚くほど理解されていたのではないかなあと思ったりします。
中也の詩などに出会うと、日本語の凄さに圧倒されます。美しさからいうなら、日本語は、ある意味、突き抜けているのではないかと思えます。こんなに品格のある言語をもち、高い文化を誇れる国だから、外国の詩歌や文学が、高度なレベルで伝えられてきたのだろうと、嬉しくなります。(^^♪
モーツァルトの作品をひとつだけ、と言われると、やはり、ピアノソナタ第10番を挙げたくなります。

この曲は、一年のどの季節に聴いても、気分が良くなるのですよね。
「フランスに行きたしとおもえども」の時代、そのような言葉があるのですね。中也の昭和の初期などは、フランス文学にフランス絵画、ミュージカルにシャンソン、みんながフランスに顔が向いていたように思えます。
中也はその後ランボウ詩集を翻訳していますが、評価は上々です。本当にフランスへ行っていれば凄い刺激になっていたと思います。
中也の詩、自分が若い時に読んで感じた日本語と、今読むのとは違い、難しい日本語には考える楽しみがどんどん湧いてきます。いまはPCの時代おお助かり、不思議な日本語を理解するために意地で探している自分がいます。
モーツアルトのこの10番、聞いていると、フランス風のメロディーかと思わせるような陽気でシックな雰囲気を感じるのですが、フランスには関係なさそうです。前回の時に、コメントを読んですぐ、ピーンときたのがこの10番でした。
あぁ、この曲を忘れていたなどと。モーツアルトはこの曲の前後あたりから様子が様変わりです。