2010年04月21日
吉原遊女の反逆
火事と喧嘩は江戸の華ですがそれにしても、江戸 吉原遊郭の全焼火災の頻度はすご過ぎた。何もかも燃え尽きろと叫ぶ遊女による放火も何度かあった。
1987年 公開の 東映 映画「吉原炎上」 (TVでは2007年12月)は明治末、久乃が吉原に遊女として売られてきたのは十八歳であった。そのときの吉原は失火で炎上したが、江戸末期には13歳、14歳、15歳の遊女見習いによる放火で何度か吉原が炎上した。
<遊女の反逆>
(1)弘化2年 1845年8月、梅本屋抱えの遊女福岡が楼主から折檻責めにあい死亡。 怒った遊女達16人が梅本屋に放火して番所に自主。 遊女福岡の死亡と梅本屋のひどい食事や人の扱いをしない主人の悪行を役人に訴えた。
楼主の佐吉は家財没収のうえ遠島。 遊女の首謀者ら4名は情状酌量されて遠島、 他の遊女12名は押し込めの処分をうけて楼主と両成敗となた。押し込め:屋敷内に幽閉して外出を禁じる。
(2)弘化2年 1845年12月河津屋鉄五郎方から出火し、吉原全焼。 抱えの玉琴、六浦、姫菊が逆境を悲観して火をつけた。
玉琴は十三歳、六浦は十三歳、姫菊は十四歳、三人とも幼な過ぎ。
吉原は全焼した。 放火は重罪、気になりどのような処罰が出たのか懸命に探したが不明。 遠島の場合、そこで罪人達は自活しなければならないが、3人の子供にはとても無理である。公表記録がないのは未成年者として何らかの温情処置があったのであろう。
<吉原遊郭、10年間契約の人身売買>
・元和 3年 1617年
吉原遊郭を幕府が認可。
・寛永10年 1633年
幕府は遊女の年期10年と定め年期明け遊女の拘束を禁止する。 通常、幼少期に売られ、契約は16−17歳より10年間拘束される。 平均の年期明け は8割程度で、2割ぐらいが身請けされて結婚したり妾になっている。
・文政 8年 1825年
吉原遊郭の遊女の数は、禿まで含めて3600人、男芸者20 人女芸者160人。
・全焼すると3ヶ所ぐらいに分宅して営業。火災を繰り返している内に品川 新橋、深川などの未公認遊郭が増え吉原は寂れてゆく。
幕府は未公認遊郭の遊女を強制的に吉原に送り込み、浮きつ沈みつを繰り返し、新橋、品川、深川は遊女が追い出され芸者が残っていった。
明治に入り芸者が総理大臣の夫人(伊藤博文、井上權兵衛、原啓、西園寺など) になる。遊女の文芸を嗜む流れを受け芸者の地位は高く教養豊かな女性達であつた。
<江戸 吉原遊郭 全焼の記録>
寛永 7 1630 八丁堀からの火災で吉原類焼
寛永 17 1640 八丁堀からの火災で吉原類焼
正保2 1645 吉原全焼
明暦3 1657 明暦の大火元吉原全焼により新吉原へ移転する。
明和 5 1768 吉原大火で遊郭が全焼。
寛政 6 1794 吉原大火で遊郭が全焼。
文化 13 1816 吉原大火で遊郭が再度全焼する。
天保 13 1842 吉原大火で遊郭が再度全焼する。
弘化 2 1845 吉原大火で遊郭が再度全焼する。
文久 2 1862 吉原大火で遊郭が再度全焼する。
元治 1 1864 吉原大火で遊郭が再度全焼する。
慶応 2 1866 吉原大火で遊郭が再度全焼する。
文化13年から50年間で6回の全焼
<遊女の火付け記録>
火付けは重罪で普通は死罪となる。しかし、遊女にはそれなりのつらい理由があるので島送りとなっている。このあたりは、江戸幕府には人情味があった。
文政18年 1828年
15才遊女豊菊 火付けで八丈島流罪。 10年後に豊菊以下7名が島抜け成功。 八丈で150年間に抜島したものは15 回で成功したのはこの1回だけ。常陸鹿島灘へ上陸後、捕まり江戸送りにて処刑される。
文政19年 1829年 遊女清橋 火付け 八丈島流罪 遊女瀬山 火付け 新島 流罪
天保 2年 1831年 遊女伊勢歌火付け 八丈島流罪
天保 4年 1833年 遊女古里 火付け 八丈島流罪、 遊女藤江 火付け 三宅島流罪、 遊女清滝 火付け 新島 流罪
弘化 2年 1845年 遊女16人 集団火付け 4名流罪 12名押し込め 遊女玉琴、六浦、姫菊 3名集団火付け処分不明
嘉永 2年 1849年 遊女喜代川 火付け 八丈島流罪、遊女代の春 火付け 三宅島流罪
嘉永 5年 1852年 遊女玉菊 火付け 八丈島流罪
安政 3年 1856年 遊女梅ヶ枝 火付け 八丈島流罪
明治 5年 1872年 人身売買禁止令が出て、遊女は本人の自由業として公認し売春は継続する。
<売春防止法>
売春抑制のヨーロッパで女性と子供の国際的奴隷売買の禁止や中国人労働者苦力の輸出と奴隷的な強制労働禁止などが、国際人権問題として当時取り上げられ、各国は人身売買の禁止協定を結ぶ。
西洋からは特にイギリスから日本遊郭の未成年女性の人身売買が指摘された。国際化を目指す日本政府はすばやくこの問題に対処し、明治5年の芸娼妓解放令により人身売買が禁止された。
遊女は借金棒引きで解放されたが、多くは仕事もなく舞い戻り自由業娼婦となる。遊郭は舞い戻った遊女と客に部屋を貸す貸席業と名を変える。これは外国に対する名目だけで、中身は何も変わらなかった。
1958年 昭和33年の売春防止法を以ってやっと遊郭は廃絶される。
この記事へのコメント

吉原炎上は、いつだったかテレビで放映されていたのを見ましたが、五社監督の赤色の使い方が際立っていたのが印象的でしたぁ。
人身売買は貧困のバロメーターだと思いますが、親が娘を売るというのは、どれほどのことだろうなあと、売った親のしんどさも思いやられますよね。
こんばんは。吉原炎上、わたしもテレビで見ています。3年ほど前ですね。 確かに緋色のまばゆい花魁の着物などを思い出します。
あの世界の中でも、すごい挑戦があるんだなと不思議な思いで見ていました。
貧困を頼りにしたビジネス社会が形成されていたのですね、
親も子も、貧困を恨むしかなかった時代でしょうか。
でも、いつの世も人は懸命に生きてゆきます。
ある大学の先生ですが、絶望を感じたら、死の死を考えろと言ってました。
幼い子供たち、そしてその親、想像します。
haruka1さん、じゅんちゃん、今晩は〜♪
籠の鳥さんはお辛いことが重なり気持ちが癒えるのが時間がかかると思うので長い目でみてあげて下さいね。 籠の鳥さん勝手に理由を言ってごめんなさい。
記事に戻りますが遊女の火付けは哀しすぎますね

ところで、FXは利益が50万円になりました




不況のせいで貸したお金の返済が滞ってる為稼げど稼げど貯まりません。
後、一年半でローンの毎月23万円が終わり楽になるのでそれまでは必死に頑張ろうと思います

こんばんは。いやいや、FXすごいです。良かった、一安心です。利益だけで運用なんて、さすがです。
戦友の成功はすごくうれしいです。
あと、1年半ですか、がんばりましょう。もちろん私もですが、私の回復はまだまだ先のようです。
今更ながら百年に一回のリーマンショックの影響の大きさを思います。